コント食堂の五期メンバー・おしんこきゅうの、これまで語られることのなかった真実に迫ります。(取材日:2014年11月某日 聞き手:ししどっち)
ーお二人の生い立ちを教えて下さい。
藤原(以下、藤)「生まれたときの僕は本当に可愛くて、僕の周りに看護婦が集まってナースステーションが空っぽになるほど人気だったらしいです。」
ー証拠写真がここにないのが残念ですね。
藤「小学生の頃は活発な少年でした。小一の時、クラスで最初にスカートめくりをやったのは僕なんです。いつも休み時間になると最初に僕がやって、その後に5~6人のクラスメイトが真似するみたいな。」
ー流行の発信源的な存在だったんですね。
藤「中高生の頃はバレーボール部に所属していました。必ず身長が伸びると言われて入部したんですけど、入部前155cmだったのが156cmにしかならなくて、この有様です。」
ーいや伸びしろ少なっ!確かに伸びたけど、たった1cmって!
藤「母方の遺伝に逆らえませんでした。」
ーではご家族のことを教えて下さい。
藤「父は消防士で、母が体操のインストラクターでした。父が180cm、母が147cmの身長差カップルなんです。」
ー矢○○里のところみたいですね。あちらは離婚しましたけど。ご兄弟は?
藤「12歳上の兄・10歳上の姉・8歳上の姉・僕の4人兄弟です。」
ー藤原君だけずいぶん年が離れてるんですね。
藤「そうなんです。多感な時期に『自分だけ事故で生まれたんじゃないか』と考えたこともありましたが、年の離れた末っ子だったおかげで、家族みんなから可愛がられました。でもみんなスタイル良くて美男美女なのに、僕だけ絞りカスみたいなんです。」
ー絞りカス?
藤「父の中の下ぐらいの顔とぽっちゃり体型、母の低身長と天然パーマという、両親の悪いところを引き継いじゃって。」
ーある意味サラブレッドですね。
藤「マイナス・サラブレッドです。」
ー高校時代はいかがでしたか?
藤「小中学生の頃、吉本新喜劇の影響でお笑いの世界を目指していたのですが、高校受験で志望校に落ちたのを機に、父親のような消防士や公務員になるつもりで真面目に高校に通うようになりました。おかげで無遅刻無欠席で成績もトップクラスになって、指定校推薦で大学に行くことができました。」
ーすごい!全然マイナス・サラブレッドじゃないじゃないですか!
藤「まぁ高校自体の学力は低かったんですけどね。」
湯浅(以下、湯)「僕は頭がいい子でしたね。自分で言うのもなんですけど。幼稚園の頃から勉強が好きで、ひらがなカタカナはもちろん、すでに九九を暗唱していました。」
ー幼稚園で九九!?賢い子ですね。
湯「小学生の頃のテストは100点以外獲ったことがありませんでした。特にガリ勉だったわけではなく、授業を真面目に受けるだけで頭に入っちゃうんです。小5で漢検二級と英検二級に合格しました。」
ーそれはすごい!大人でも合格は難しいのに。
湯「中学ではサッカー部の副キャプテンを務めました。成績は常に学年400人中10位以内に入っていて、クラスでも常に中心でした。文化祭の出し物でアンパンマンをやることになったんですけど、自分が休んでる間にみんなからの推薦で主役に抜擢されました。」
ー適役ですね。気は優しくて力持ちだし。
湯「笑いを取るのが好きになったのもその頃ですね。家庭科の授業で絵本の読み聞かせについて学んだんですけど、僕がみんなの前で読んだら大爆笑が起こったんです。どういう風に読んだのかは覚えてないんですけど。」
ー頭が良くて、スポーツもできて、ユーモアもある。恵まれ過ぎてますね。
湯「でも先生にはいい顔をする反面、陰ではヤンキーともつるんで悪ぶったりもしていました。上手く顔を使い分けていましたね。みんなと仲良くしたくて。」
ーなるほど。その経験が今のチョイ悪な芸風に活かされているんですね。
ーさて、同い年の二人はそれぞれの青春時代を経て、一年違いで同じ大学の落語研究会(以下、落研)に入るわけですが。
藤「大学に落研があるのを知って、昔お笑いが好きだったことを思い出したんです。もともと落語も嫌いじゃなかったので。オリエンテーションで先輩が漫才を披露していて、落語以外に漫才ができることも魅力的でした。」
湯「僕は落語より漫才がやりたくて入部しましたが、先輩から『漫才だけじゃだめだよ』と言われてしぶしぶ落語を始めたら、だんだん楽しさが分かってきました。」
ー湯浅君が入学したときにはすでに藤原君が先輩として落研にいたんですよね。藤原君の第一印象は覚えていますか?
湯「ちんちくりんな奴でしたね。」
ー特に面白かったという印象は?
湯「ないですね(即答)。」
藤「おい!」
ー藤原君から見た湯浅君は?
藤「新歓コンパに来ていて、『今まで幸せに生きてきたんだな』とパッと見で分かるような印象でした。」
ー鋭い(笑)。
藤「周りの初対面の人達とナチュラルに話せる奴で。数日の新歓コンパを経て、一番目立った新入生に贈られる『33代目・どじ郎』という高座名が湯浅に贈られました。」
湯「もう一人候補がいたらしいんですけど、最終日に部員30~40人で行くドライブで笑いを取りまくったのが決定打だったみたいですね。」
ー歴史ある名前を受け継げて幸先がいいですね。門下はあったんですか?
湯「はい。落研には五つの門下があって、僕は『愛狂亭(あいきょうてい)』で、藤原は『愛家(いとしや)』でした。入部するとどこかの門下に入って、三回生に師事していろいろ教えてもらうんです。」
ー大学のサークルといえど本格的ですね。
湯「僕は『どじ郎』から『翠虎(ぐりこ)』、『有(たもつ)』を経て、三回生で部長になって『9代目・多楽(たらく)』を名乗りました。」
藤「『多楽』は落研の創始者と同じ高座名で、由緒あるものなんです。」
湯「先代は10年以上上の会ったこともない先輩でしたが、僕の師匠が『どうしても湯浅に引き継がせたい』と、先代にお願いして許可をもらって下さったんです。」
ー湯浅君はサークル内でいろいろと特別な存在だったんですね。
湯「上手くて面白くない人と下手だけど面白い人がいたとしたら、僕は後者でした。一応何10ページもの台本を書いて覚えるのですが、型に捉われずに自由にやって、確実に笑いを取っていました。」
ー藤原君は?
藤「僕は『足洗(かたぎ)』『笑神(しょうしん)』という高座名で、真面目にプロの落語家さんの音源を聴いて、なるべくその通りにやることを心掛けていました。技術を評価してもらったことはありますが、湯浅とは違ってそれほど爆笑が取れたという記憶はありません。でもある年の学祭でプロの落語家さんの前にやったらめちゃくちゃウケて、次に落語家さんが上がるとき『プレッシャーになりますね』と言って頂けたのが嬉しかったですね。」
湯「お世辞だろ。」
藤「いや分かってるよ!」
ーサークルはどんな雰囲気だったんですか?
藤「僕の頃は完全に飲みサークルでしたね。」
湯「僕は元々お酒が好きじゃないし、『裸になれば笑いが取れる』みたいな大学生特有の変なノリが嫌だったので、自分が部長になったときにその空気を変えました。学祭や新歓など年間のイベント以外に、もともと細々とやっていた老人ホームなどへの慰問活動を精力的にやり始めたおかげで、大学からAランク評価を受けて支援金をもらいました。今も後輩がその流れを引き継いでくれているみたいです。」
ー歴史ある落研の流れを変えたなんてすごいバイタリティですね。他にはどんなことを?
湯「県警の依頼で、オレオレ詐欺撲滅キャンペーンのためのコントを作って、県警から表彰されました。DVDが30万枚作られて、県内外のいろいろな場所で流して頂いたおかげで、街で『オレオレ詐欺の人や!』と指をさされたりしましたね。」
藤「『オレオレ詐欺の人や!』って言われると自分が犯人側みたいだな(笑)。」
ー地元では有名人だったんですね。
湯「あとは、NHKで夢を追う若者の特集番組で取材されたこともあります。2、3日密着されて朝起きてからネタ合わせをしたり慰問に行ったりしているところをカメラで撮られました。夕焼けの公園で夢を語るシーンとか、今思うと恥ずかしいですが、僕達が売れたらぜひまた放送してほしいですね。」
ー売れたらと言わず、ぜひ早めにYouTubeで公開してほしいです。
ーコンビ結成のきっかけについて教えて下さい。
藤「僕が二回生、湯浅が一回生の学祭の時、湯浅の方から誘ってきたのがきっかけです。」
湯「僕はお笑いヤリチンで、入部してからいろいろな人とコンビを組んで漫才をしていました。その中である先輩と少しの間活動していたのですが、その学祭に先輩が出ないことになったので、当時面白いと言われていた藤原に声を掛けました。学祭では隣の大学のお笑い同好会と合同でコンテストをするのですが、全15組の中で僕達『魚肉ソーセージ』が優勝しました。」
ー魚肉ソーセージ(笑)。コンビ名はともかく、結成してすぐに優勝するなんてなかなかできることじゃないですよね。
藤「さらに翌年の新歓でも二人でやって、2000人の前で大爆笑を取りました。贔屓目じゃなく本当に。」
湯「あれは気持ちよかった。大地震が起きたみたいに笑い声で会場が揺れたもんな。」
藤「すごく感動して、僕はそこで初めて本格的にお笑いをやっていこうと決めました。でも湯浅の方は警察やら教師やらに就職を考えていたので、最初は一人でプロを目指そうとしてたんです。」
湯「僕は元々お笑いは大学生活の中の遊びだと考えていて、就職したらお笑いには一切関わらないつもりでした。でもその新歓の客席の中にたまたま県警の方がいらっしゃって、オレオレ詐欺撲滅キャンペーンのオファーが来て、大学生ながらプロみたいに仕事をしてギャラをもらっているうちに、『お笑いでお金が稼げる』ことが分かって。単位が思うように取れていないこともあったので、お笑いをやることにしました。」
ー新歓が人生のターニングポイントになったんですね。その勢いのままM-1グランプリにも出場したんですよね?
藤「落研の中でM-1に挑戦してみようという話が出て、湯浅とどこまでやれるか試してみたくてエントリーしました。でも一回戦で時間切れになってしまって、絶対落ちたと思って帰りのフェリーですごく落ち込みました。でもウェブで結果を見た友人が『受かってるよ』と連絡をくれたんです。」
湯「最初冗談かと思って『受かってるわけねぇだろ!』とその友人に怒ったんですけど、あとで確認したら本当に受かってて(笑)。」
ーせっかく教えたのに怒られるなんて、かわいそうな友達(笑)。
藤「でも結局二回戦の東京会場で落ちてしまいました。ファミレスネタだったんですけど、出番が一つ前の某人気トリオとネタが被ってしまって。案の定自分達は受けなくて。」
ーネタ被りは微妙な空気になりますもんね…。
藤「二年目もそのファミレスネタを一年間磨き上げて挑戦しました。一回戦では時間内に終われて、ちゃんと爆笑も取って通過できたのに、なぜか二回戦でキンキンにスベって落選しました。地元で大爆笑を取ったネタだったんですけど。」
湯「『東京は怖いな』と思いました。」
ーやっぱり全国の壁は厚かったんですね。
ーM-1への挑戦が終わり、いよいよ上京ですね。
藤「M-1のあと、地元で2か月に一度開催されるライブに出演するなど、細々と活動していました。当時の僕はコンビと並行してピンの活動もしていました。そのとき湯浅がどう思っていたかは分かりませんが、安易に誘って他人の人生を壊したくなかったんです。一人で大阪に行くことも考えていました。」
ー最初は東京ではなく大阪に行くつもりだったんですね。しかも藤原君一人で。
湯「僕は藤原からそれを聞いて『相方、俺じゃダメなの?』と言いました。その結果、親に許可をもらえたら一緒に行こうということになりました。」
藤「嬉しかったですね。元々真面目に生きてきた奴なので親の反対があるかと思いましたが、ちゃんと説得してくれて。」
湯「ただ一文無しでは何もできないので、一年ぐらい地元で働いて貯金をすることと、大阪ではなく東京に行くことを僕が提案しました。関西人じゃない奴が関西弁でしゃべっても気持ち悪いし、大阪で売れたあと東京に行くなら、最初から東京に行った方が早いと思ったんです。」
ーさすが頭脳明晰な湯浅君、冷静な判断ですね。
湯「それから上京する数か月前になって、地元でお世話になっている方の勧めで、単独ライブをやることになりました。会場を借りるなどマネージメントはすべてその方がやって下さって。チラシは例のM-1の結果を教えてくれた友人が作ってくれました。RPG風のドット絵のイラストで、なぜか『イってきます』と書いてありました。」
藤「このライブのために、僕が漫才とコントを合わせて7~8本書きました。ただ短期間の稽古で詰め込んだせいで、湯浅がネタを飛ばしたんです。最後のネタが『アイドルオーディション』というコントだったんですけど、もう酷い出来で。でもお客様もたくさん入って盛り上がりましたね。」
ーその『アイドルオーディション』のコント、いつかコント食堂で完全版を披露して下さいね。
ー地元での単独ライブを経て、2011年5月からついに魚肉ソーセージの二人は東京での活動をスタートしました。コンビ名を現在のおしんこきゅうに変えたのもこの頃ですよね。
藤「はい、東京で初めてフリーライブにエントリーするときに、コンビ名の話になったんです。」
湯「当時いらっしゃったソーセージというトリオ(現在はコンビとなり改名)と紛らわしいので、上京したこのタイミングで改名しようということになりました。」
藤「お互い色々考えたよな。」
湯「僕が最初に思いついた名前は『ディアホース』でした。ディアが鹿、ホースが馬で、逆にしたら馬鹿っていう意味で。」
藤「僕は『アコカンパン』という名前を考えました。特に意味はなくて響きの良さだけなんですけど。」
湯「二人の頭文字をとって『藤湯』というのもありました。でもお互いしっくりくるものが出なくて、駅前の公園でずっと話し合ってたんです。その帰り道、藤原が思いついた『おしんこきゅう』に僕が大爆笑して。」
藤「丁寧語の『お』を、普段付けない単語に付けたらどうかという流れになって、思いついた単語の一つでした。湯浅がこんなに笑うならこれでいいかということになって最終決定しました。のちのち『お吸って~、お吐いて~、おしんこきゅうです!』という自己紹介や『皆様に深呼吸したときのようにリラックスしてネタを見てほしいから』という由来を後付けで考えましたが、真相はこういう直感的なことなんです。」
ーなるほど。ちなみに先ほどスルーしましたが、前身の『魚肉ソーセージ』の由来は?
湯「僕が前日に観たテレビで、某芸人さんがボケで『この方には魚肉ソーセージをプレゼントします』と言ったのが面白かったからです。当時はどうせ一回限りの名前になると思って適当に名付けましたが、結局二年ぐらいその名前で活動しました。」
藤「あと魚肉ソーセージがたまたま地元の名産品だったんです。地元出身の某女性ピン芸人さんもネタで魚肉ソーセージを使っていましたから。」
ー魚肉ソーセージといい、おしんこきゅうといい、適当に決めたようで実は奥深いんですね。
ー改名後に臨んだ、東京での初舞台はいかがでしたか?
湯「初舞台は、落研の先輩の紹介で出演したライブでした。」
藤「10人ぐらいのお客様の前で普通に漫才をしましたが、わりかしウケましたね。」
湯「でも二度目のライブでクソミソに滑ってしまって。ネット配信されるので地元の人にも観てもらういい機会だったのですが…。上京後、初の挫折を味わいました。」
藤「普通の漫才をしているだけじゃだめなんだと気付きました。当時月に10~15本のライブに出演しながら、何かいいキャラはないかと模索していました。そしたら何人かの共演者から、湯浅の見た目がヤ○ザのようだとイジられるようになったんです。それがきっかけでヤ○ザ漫才を思いつきました。」
ー周りからのイジリが新キャラを生んだんですね。
藤「ただ湯浅は最初あまり乗り気じゃなくて。」
湯「はい。僕は普通のしゃべくり漫才がしたかったので。」
藤「それを僕が『ちょっとやってみようよ。今はキャラを探してる段階だから』と説得してやってみました。すると、ハマったというか、ウケるウケないは別にして、お客様の見る目が変わったんです。『こいつらこういうことをする芸人なんだ』と一発で紹介できるような。次第にお客様の笑い方も変わってきましたね。」
ー他者が説明できるほど強い個性を持つことは、売れる芸人にとっては必要不可欠ですもんね。『ハッハー!』『なぁんだそれ!』というキメ台詞が生まれたきっかけは?
湯「上京から現在までずっと二人で同じ家に住んでいるのですが、ある日藤原が僕の部屋に全裸で『ハッハー!』と叫びながら入ってきたんです。」
藤「なぜかテンションが上がってしまって。アメリカを意識しました。」
ーどこがアメリカなんだか(笑)。
藤「最初僕だけ言っていたものを、いつからかお互い言うようになって、ギャグとして舞台でもやってみようということになって。」
湯「『なぁんだそれ!』は、当時の藤原が気に入っていたツッコミセリフに『なぁんだそれ!』と『もう勘弁!』というのがあって、そこから採用しました。」
ー『もう勘弁!』バージョンもぜひ見てみたいですね(笑)。
ー翌年、ついに事務所所属が決まりますね。きっかけは?
湯「2012年2月開催の事務所主催のフリーエントリー制のライブで、30組くらいの中から4位に選ばれたんです。上位の組はお客様を50人とかたくさん呼んでいたのですが、自分達は一人も呼べなくて。」
ー組織票に頼らず上位に選ばれるなんて、一年でかなりレベルアップしたんですね。
湯「後日マネージャーから連絡があって『よかったら所属しませんか』と言われたので、『まぁ(所属)してやるか』ということになりました。所属は思ったより簡単でしたね。」
ーなぜ上から目線なんだよ!ちなみに芸風をヤ○ザ風に変えてから、生活に変化があったと聞きましたが。
湯「怖そうな人に声を掛けられて『あ、間違えました』と言われたり、歌舞伎町や六本木でキャッチしている若い衆に会釈されるようになりました。」
藤「歌舞伎町でライブがある日に、会場に向かうときにみんな湯浅を避けて行ったので歩きやすかったですね。会場入りしてからもなぜか湯浅だけVIP席を案内されそうになったので、『出演者です』と言って連れ戻して。」
ー(笑)この巨体にスーツですもんね。本当の湯浅君を知らない人からしたら脅威でしょうね。好きな食べ物は?
湯「ミルクレープです。」
ーいやカワイイな!見た目に反して!
ー2012年4月にめでたく事務所所属が決まり、同年5月にコント食堂の立ち上げがありました。最初は二人ともお客様として観に来て下さったんですよね。
藤「僕はカイさんの紹介で11月の二号店を観に行ったのが初めてでした。主催のししどっちさんのことは他のライブで共演したことがあったのですでに知っていて。『クネクネした誠実な人』という印象でした。あとは『ボディタッチが多い』とか…。」
ーいいよ!僕のことは!ライブの印象は?
藤「とても暖かいライブだと感じました。でもその時の僕達は漫才をメインでやっていたので、出演したいという感覚はあまりなくて。コント師の皆さんに対する憧れのようなものを感じていました。」
ー翌年3月の三号店も観に来て下さいましたね。感想にも「食堂というコンセプトがいい」「ダンスパフォーマンスは他のお笑いライブでは見られない」「ししどっちのメンバーを選ぶ目がいい」「レベルが高くて物怖じする」と大絶賛で。
湯「僕は相方に連れられて、4月のあねっくす一号館に観に行ったのが最初でした。あいにく腹痛のため集中して観られなかったのが残念でした。」
ーその日のうちにTwitterで絶賛して下さっていましたね。「コント食堂おもろかったなー。なんで1 2 3号店行ってなかったんだろう??」(原文ママ)って。
湯「全体的に面白かったという印象ですね。今は記憶にないんですけど。」
ーないんかい!そして9月のあねっくす二号館で、五期メンバーとしてついに初出演して下さいましたね。食堂での初舞台はいかがでしたか?
藤「ややすべりしてましたね。」
湯「既存メンバーで出来上がっているところに新顔が入って、受け入れられていない感がしました。」
藤「メンバーというか、お客様にね。」
湯「せっかく出演させてもらったのに、あまり笑いが取れなくて申し訳なかったなと思いながら帰りました。」
ーアンケートにも「怖い」と書かれていましたもんね(苦笑)。
藤「湯浅の見た目の怖さと、内面の可愛さのギャップをどういう割合で魅せるかを真剣に考えられるようになったのは食堂のおかげですね。」
ーその後、12月の五号店では「お通しコント(オープニング)」のメインを張ったり、翌年11月の闘コン食堂一号店では14組中第4位と、出演を重ねるごとに少しずつ食堂の顔として認められつつありますね。
湯「闘コンの順位は正直もっと上だと思っていたので悔しかったです。」
ーでもお客様に受け入れられるという意味では大成功でしたよね。大爆笑を取ってましたし。食堂には今後どういう関わりをしていきたいですか?
湯「漫才をメインでやってきた僕達が、食堂に出逢ったおかげでコントも頑張るようになりました。もちろん来年以降も続けていきたいです。」
藤「食堂に関わったおかげで自分達の成長を感じることができました。今後はもう一つ上の次元というか、キャラに頼ったコントだけじゃなく、他のメンバーのように面白いコントができるようになりたいです。」
ー楽しみにしています。最後に、それぞれの今後の目標を聞かせて下さい。
湯「テレビに出て、顔が売れて、モテて、可愛い奥さんと結婚したいです。一番の目標はとにかくモテることです。ギャラは全部相方にあげてもいいので、地位と名声がほしいです。あと湯浅家のみなさん、長男なのにお笑いやっててごめんねごめんねー!(パクリ)」
藤「地位と名声を欲しいままにした相方の収入を僕がもらうのもいいですけど、相方には収入のある女のヒモになってもらって、僕はそんな相方のヒモになりたいです。」
ー最低なコンビだな!夢に向かって頑張って下さい。